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実家の勝手も4畳半で、 居間も4畳半で、 トイレは今のすぐそばにあって、 何となく居間までトイレの芳香剤の匂いが漂ってきていて、 トイレはきれいな水色のタイル張りで 二回に階段は今思うと祖父母にはとても急だったにちがいなく、 二階の柱時計の音が少し怖くてなかなか眠れなくて。 今思うととてもこじんまりとした空間だったのですが、そこに親戚兄弟が揃ってもなぜのんびりとくつろげたように感じていたのは、子供の視点からだったからでしょうか? 武居三省堂 建築年:1927年(昭和2) 復元年:1993年(平成5) 旧所在地:千代田区神田須田町一丁目 構造:木造2階建て 建築面積:49.18㎡ 延べ面積:93.10㎡ 寄贈者:三井不動産株式会社 旧所有者:足立ちか子氏 武井三省堂は、昭和初期の神田須田町に建てられた店舗併用住宅で「看板建築」といわれる形式の建物である。筆・墨・硯などの文具の卸業を営み、店の創業は明治に遡る。取引先は東京だけでなく、広く関東近県にまで及んでいた。店の名前は、中国の古典の中に出てくる「吾日三省吾身」(毎日、三度反省するという意味)に由来するという。 戦前の神田須田町界隈は、万世橋駅(現在は廃止)を中心とした繁華街であった。市電の停留場もあり、学生など多くの人で賑わった。有名な古書店街も近く、看板建築の建物も多く見られた。武井三省堂はそのような町の中に建っていた。 昭和初期の頃には家族のほか、5~6人の奉公人を含め、15人程度の人がこの建物で生活をしていた。食事は、店の後ろの三畳間で交代でとった。2階から上の階は家族の生活空間で、使用人は店に布団を敷いて寝起きした。 床から天井までびっしりと並んだ引き出しの数には圧倒されます。映画「千と千尋の神隠し」では、蜘蛛のような腕を持った「釜爺」が中に入った薬草を取り出していましたが、ここではものすごい数の筆が収められていたそうです。 武居三省堂 建物は、木造建築の正面に衝立てのように平面的なファザード(建築の正立面)がとりつく、いわゆる「看板建築」の代表例。この形式は大正中期から昭和初期にかけて、都市の商店建築を中心に流行した。一般にファザードはタイルを貼ったもののほか、銅版葺き、モルタル仕上げなどがある。また洋風の装飾を施したもの、戸袋に和風の紋様を付けたもの等デザインに工夫が凝らされたものもあり、実にバラエティーに飛んでいた。武居三省堂のファザードは、外壁をタイル張りとし、側柱・戸袋廻り・庇などを銅板で包んでいる。また、屋根は腰折れの「マンサード屋根」となっている。屋根のこのような構造も「看板建築」にしばしば見られる特徴である。 花市生花店 建物の正面には、花屋らしい装飾が銅板を用いて施されている。2階の窓下には四季折々の花をあしらったレリーフを、3階には小さな菊と蝶を四隅に配置している。正面全体からは洋風の印象を受けるが、「花市生花店」と店名の入っている部分は、伝統的に七宝つなぎの模様を用いた和風の装飾となっている。 なお、この店名とその下にある電話番号の文字は、この建物が建てられてまもなくこの部分に看板がつけられたため、風雨にさらされることなくほとんど当時のまま残ったものである。また、ショーウィンドーは、戦後まもなく撤去されていたものを、古写真を元に復元した。 花市生花店は古い様式を店内に残した、看板建築の花屋として貴重な建物である。 小寺醤油店 建築年:1933年(昭和8) 復元年:1991年(平成3) 旧所在地:港区白金五丁目 構造:木造2階建て 建築面積:108.65㎡ 延べ面積:166.49㎡ 寄贈者:小寺恭夫氏 建物は、切妻造り桟瓦葺きの木造2階建てで、正面の大きな開口部とその上に架けられた迫力ある欅一枚板の看板によって特徴付けられる。2階部分は、縁の刎高欄やガラス窓の組子などがユニークな表情を与えている。腕木、垂木、まぐさの先端を銅板で包み飾っている点も特徴である。 腕木の断面寸法は出桁造りの収蔵建造物中でもっとも大きく、骨太な印象を与える。 店舗部分の天井は、2階の床を支える構造体が露出する力強い根太天井である。また居住部分との境は大阪格子としており、商家の造りの特質を継承している。 昔の大きな引き戸には床に金属のレールが打ってあって、開けるとガラガラと大きな音が響きました。そのガラガラが腕に伝わってくる感じが好きで勢いよく締めた時のピシャッという音と感じも木が引き締まって好きでした。 でも両親にはよく「うるさいからやめなさい。」と言われていました。 子宝湯 建築年:1929年(昭和4) 復元年:1993年(平成5) 旧所在地:足立区千住元町 構造:木造および鉄筋コンクリート造1階建 建築面積:283.85㎡ 床面積:283.85㎡ 寄贈者:平岡徳朗氏 子宝湯は1929年(昭和4)10月に足立区千住元町に建てられた。施主は石川県七尾市出身の小林東右衛門という人だった。この小林氏は千住の子宝湯のほかに、町屋と西新井にも同名の子宝湯を建築して、全てで5軒の銭湯を経営していた。当時の1軒の銭湯を建てる相場は2万円程度だったが、千住の子宝湯の建築に際しては4~5万円を費やし、しかもわざわざ気に入った大工を郷里の石川県から連れてきたという。入り口の唐破風のしたにある「七福神の宝船」の彫刻だけでも二階屋が建つほどの経費がかけられたと伝えられている。 子宝湯のファザードを印象付けるのは、入母屋造の大屋根と、その下に張り出した玄関の唐破風、して多彩な彫刻である。 狐格子の妻造りを持つ入母屋破風には、蕪懸魚鰭付が取り付く。その下の唐破風は「松・鷹・雀」の兎毛通しで飾られ、虹梁の上には「波・七福神・雲」の彫刻が施される。このような賑やかな装飾と寺社建築を思わせる外観は、震災後に建てられた東京の銭湯建築の特質をよく現している。 正面タイル画が飾られた玄関から、左右上部のガラス欄間に示された「男湯」、「女湯」のいずれかのガラス戸を開き、脱衣室に入る。脱衣室は高い天井が印象的な空間で、天井は折上げ格天井である。番台の肘掛にまで彫刻が施されている点は面白い。脱衣場の外側には、ガラス戸を介して濡れ縁を廻し、その端に外便所を置いている。とくに女湯では、便所隣に休息室が付設されている。 このような日本の伝統建築の空間を思わせる脱衣室に対し、浴室は洋風の雰囲気が強い。浴槽・床はタイル張りで、壁面は堅板張りおよびタイル張りとしている。天井の中央部は大きく持ち上げられ高窓を設けることにより、自然採光や換気が配慮されている。男・女湯の境が壁とあたる位置には、、西洋の古典建築を思わせる柱頭を持った柱が立つ。こういった浴室の空間構成もまた、いわゆる「東京型銭湯」の特徴である。 銭湯に行くと必ずといっていいほどここで涼んでいました。 時々コーヒー牛乳やイチゴ牛乳を買ってくれたりして。 祖父母の家にはお正月か夏休みにしか来れなかったのですが、冬はあまり汗をかかないからお風呂はには行かなかったのです。 だから思い出すのはいつもヒグラシが鳴いている夕飯前の夏の宵です。
by freehandimai
| 2002-09-21 00:00
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