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Edo-Tokyo open air architectural museum 東京都江戸東京博物館分館 江戸東京たてもの園 東京都小金井市桜町3-7-1 http://www.tatemonoen.jp/ 妻と二人で「江戸東京たてもの園」に行って参りました。 宮崎駿さんの映画「千と千尋の神隠し」のイメージにもなったと言われている銭湯が残されていて、また、ちょっと昔の建物がたくさんあると言うことで興味があったのです。 入ってみると、とても素敵なところで異世界と言うよりは、東京の文京と渋谷というど真ん中にあった祖母の家を思い出すようなどこか懐かしい建物であふれていました。 とても素敵なところでして、個人的にいろいろ写真を撮ってまいりましたので良かったらご覧下さい。 吉野家 建築年:江戸時代後期 復元年:1963年(昭和38) 旧所在地:三鷹市野崎二丁目 構造:木造1階建て 建築面積:199.07㎡ 床面積:188.09㎡ 旧所有者:吉野悦時氏 江戸時代後期に建てられた農家である。旧所在地は三鷹市野崎で、江戸時代は武蔵国多摩郡野崎村であった。このあたりは、幕府および尾張徳川家の鷹場になっており、江戸時代中頃から開発が進められた地域である 江戸時代後期の野崎村は周辺の村と同様に、水利があまりよくなかったことなどから水田はなかった。畑では大麦・小麦・粟・稗などが作られていた。明治時代以降は、多くの農家で養蚕が盛んに行われた。短期間で現金収入が得られる養蚕は戦前まで行われたが、戦後には減少し野菜作りが主流になった。昭和30年代になると農業に見切りをつける農家が増え、アパートなどの住宅地に転換して言った。 建物内には先ず「囲炉裏」がカッテ(台所)とダイドコロ(土間)の2箇所があるが、カッテにあるものは朝と夜、ダイドコロのものは農作業の合間となる昼や、近所の人が来たときの接待などに使っていた。 「かまど」も2箇所あるが、カッテのものは人寄せの時に使用し、普段はダイドコロのものを使っていた。 土間から裏に出ると、井戸があり汲み上げた水を「水がめ」にため、飲み水や炊事に使用した。 茶箪笥の上にあるものは「蝿帳」といい、食べ物を保存する為の戸棚である。 また、「箱膳」や「洗濯板」や「行季」なども、今ではあまり見かけなくなってしまったものである。 裏庭にぬけると囲炉裏で起こしていた薪の炎から出る焚き付けの良い香りと煙が昔祖母の庭でした焚き火を思い出させてくれました。残暑の只中に清涼感が私の中を抜けてゆきます。 昔はどこにも土間にかまどがあってそのそばに流しや水屋があって座りながら食事の支度をしていたそうです。 土間はひんやりと涼しく隅には大きな瓶がたくさん置いてあって網を張った木の箱が冷蔵庫になっていて、何というか「あるべき生活の姿」を見たような気がします。 八王子千人同心組頭の家 建築年:江戸後期 復元年:1992年(平成4) 元所在地:八王子追分町 構造:木造1階建て 建築面積:111.28㎡ 床面積:106.87㎡ 旧所有者:溝呂木雄蔵氏 八王子千人同心は、八王子とその周辺地域に居住した郷土集団である。もともと、甲斐武田氏の小人頭に率いられた同心衆が、武田氏の滅亡後、徳川家康の配下となったのが始まりである。天正18年(1590)、徳川家康が関東の領主となると、八王子に配備された。 八王子千人同心は10人の千人頭の下に組頭100人、組頭の下に平同心800人、持添抱同心100人(後に廃止)という総員1000人の構成であった。 平面は整形四間取り(田の字型)。後の増築と思われる便所の部分を除き、柱が礎石の上にじかに乗る構造は、江戸時代後期の一般的な特徴であり、土台の上に柱を立てる吉野家と比較して古式である。 座敷は床の間を持ち、床脇や四周に回した長押などとともに、格式を示す。また、床の間の部分のみ奥行を浅くしている(外側から見ると、この部分だけ凹んで見える)展などには、造形上の工夫を見ることが出来る。式台つきの玄関など、一般的な民家に比べ、格式を持った家となっている。 裏庭にぬけると「なんだ、これっ?」というものに出会いました。流しから出る排水を土に戻す為の排水口でした。 木で筒をこしらえているのですね。 良く見ると、茅葺きの屋根からちょうど雨が滴り落ちるはずの場所にもこの排水口の地面と同じように親指ほどの丸い石が敷き詰めてあり、どうやら水が溜まらない様にする為の工夫なのですね。良く考えれば当然の知恵なのに初めて見た私はとても感心してしまいました。 三井八郎右衛門邸 建築年:1952年(昭和27年) 復元年:1996年(平成8) 旧所在地:東京都西麻布三丁目 構造:木造及び鉄筋コンクリート造2階建て 建築面積:276.89㎡ 延べ面積:385.90㎡ この邸宅は、日本の近代史に三井財閥として名を残した三井同族十一家の総領家、三井八郎右衛門高公氏の第二次世界大戦後の邸宅である。1906年(明治39)以降の本邸であった今井町(現、港区)の邸宅が戦災により焼失した為に、財閥解体を経た1952年(昭和27)に麻布笄町(現、港区西麻布三丁目)に新しく本邸を建築した。この邸宅が「三井八郎右衛門邸」である。 西麻布邸は、京都油小路・神奈川県大磯・世田谷区用賀・今井町にあった三井家に関連する各施設から建築部材、石材、植物などが集められて建てられている。その為、邸内からは財閥が繁栄していた頃の男爵三井家の威勢をうかがうことができる。 2回には三井高公負債の寝室、仏間がある。仏間は仏壇に向かって左側に初代三井高利夫妻の画像が懸かっているほか、幕末・明治維新期の当主三井高福氏の煎綵(色糸や絹布などで作った細工物)による竜の天井画や高公氏の父親三井高棟氏作の鳳凰の襖絵、大磯の別荘「城山荘」内の窯で焼かれた青磁がある。先祖の霊を弔うにふさわしく三井氏歴代を感じさせる部屋となっている。また、仏間前の廊下にはシャンデリアが飾られている。このシャンデリアは第一国立銀行に飾られていたものといわれ、西麻布以前には城山荘にあった。 回遊式の小さな庭園から望んだところです。 手前に飛び出している茶室は離れになっていれ茶室へと導いていく路からわずか2畳の茶室へたどり着くととても静かな気持ちになりました。格子のあいだから入り込んでくる陽がゆらゆらと畳をただよい、なぜか喧騒がうすれ広く平たく時間が延びてゆくような気がしました。 三井八郎右衛門邸 平面は中廊下式と呼ばれる形式である。1階は南側に客間、食堂などの居住空間を配し、中廊下を境として北側に事務室、厨房、配膳室などのサービス空間を置いている。2階は、南側を夫婦の寝室とし、北側に会談室、便所、浴室および仏間を配す。こうした中廊下式平面は大正期に成立した平面形式である。 一方建物の表情も南北で大きく異なる。庭に面する南側の外観は、柱、長押、欄間、障子などの伝統的要素で構成される。それに対し、北側は概して装飾的要素を廃した簡素な構成である。柱や長押もなく、一見して近代の建築であることが分かる。こうした表情の違いは、建物の構造が大きく関与している。三井邸の構造は、南側が木造であり、北側は鉄筋コンクリート造である。北側2階の一部に木造のように見える部分があるが、この箇所は仏間に相当しており、コンクリートの躯体に木材を組んでいることによる。建物内部に入ると、まず玄関ホールのボール型天井灯が目を引く。この照明はフランスのガラス工芸家ルネ・ラリックによるアール・デコの佳品である。1階南側の六畳2室は、西側より食堂、客間で、油工事邸の部材を用いてつくられている。畳の上に絨毯をひき椅子やテーブルを置くという和洋折衷の生活様式を率直に示している。また、両室間の襖上には月の字欄間が設けられ、入側南西角の櫛形窓とともに、桂離宮の意匠への志向を表している。 深い緑で塗られた土壁から出た照明のスイッチ。 誰かが可愛いとつぶやいていました。 玄関から今へと抜けていく廊下の途中にほのかな明かりが・・。 壁にくりぬかれた開口に白熱球が入っていてカスミガラス越しにほのかな温かさを投げかけていたのです。こういう明かりを見ていると現代の屋内がいかに明るくなったのかが実感できました。「昔は皆このくらいの明かりの中で生活したのだなと。」 照明のかさは内側からポコポコと打ち出した可愛い作り。 外側は均一に塗られた緑。 金属の硬質さがなくなって柔らかな印象を作り出しています。 田園調布の家 建築年:1925年(大正14) 復元年:1995(平成7) 旧所在地:大田区田園調布四丁目 構造:木造1階建て 建築面積:102.43㎡ 床面積:99.36㎡ 寄贈者:須藤 満氏 この大川邸は、関東大震災後の1925年(大正14)、現在の大田区田園調布に建てられた住宅である。 この家を建てたのは当時鉄道省の土木技師であった大川栄氏である。創建当初は、夫婦と子供2人とお手伝いさん1人の合計5人で住んでいた。 生活の様式は、大正時代の生活改善運動で理想とされた「椅子座」で考えられており、創建当時は全室洋間で建てられている。居間、食堂、書斎は寄木張り、寝室と女中部屋はコルク敷きである。寝室は、1年ほどで畳に張り替えたと言う。 建物内部は、大正末から昭和初期の生活の様子を再現しているが、書斎机、居間のテーブル、食堂のテーブルとサイドボード、寝室の整理タンスは当時から大川家で使われていたものである。そのほかの多くは、展示の為に購入した展示品である。照明器具も写真をもとに製作した複製品であるが、玄関ポーチのキツツキ形の玄関灯と、玄関ホールの照明は、創建当時のものである。また、土台にはめられた換気口の金物も当時のものであり、モダンなデザインとなっている。 ふてくされた顔しているのにあいきょうがある青銅の照明。 内部にある家具もどこか愛嬌があってモダンなものばかりでした。 どこかうちのチャリに似ています・・・。
by freehandimai
| 2002-09-21 00:00
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